2016年7月16日土曜日

小池龍之介さんの『しない生活』、情報過多による脳の暴走を止めるには、つながり過ぎない

先に読み終えたと紹介していた小池龍之介さんの本『しない生活』に今の情報化時代に注意すべきことが記されています。
人類史上、未曾有の情報過多、つながり過多の現代においては情報の「快」が怖いというのです。
快感不足ではなく快感過多で、脳が麻痺するようですから。
お釈迦様は、はるか昔からつながり過ぎが脳神経を混乱させるから、「独り歩め」としつこく説かれていたようなのです。
つまり、精神衛生上、あまりつながり過ぎないで孤独を味わうのがよいと説かれていたようなのです。
これは、人類史上はじめて訪れている情報過多の時代を快適に過ごすための指針にもなりそうです。
そのあたりを例により拾ってみたいと思います。
【51 ネットの情報は集めても集めても満たされることがない】(p118-119)
◆脳に「快」の刺激をインプットする頻度と強度を、速く強くしすぎると、「快」を感じる脳の装置が麻痺してしまい、かえって気持ちよさが減ってゆく……。ゆえに、満足できずにもっとほしくなる。
◆情報を集めることは自己保存欲求にかないますから、快を感じる源泉のひとつです。
◆実は「自分情報」ほしさに、私たちはパソコンや携帯端末に釘づけになって夢中で書き込みをしたり、メールをチェックしたりするのです。書き込みに他者が反応したりメールに返事が来たりすると「自分が相手にされている!」という有力感を得て、脳に強烈な快が入力される。
◆携帯端末となると四六時中、肌身離さず持つことが多いものですから、「快」の刺激を脳に入力し続けてしまいがちです。
◆これが「自分情報」の過食症に陥り、感覚が麻痺してゆく第一歩となるのですから、情報の「快」は怖いのです。
【52 人とつながりすぎると「快感過多」で不幸になる】(120-121)
◆つながりや絆という言葉が幅をきかせる昨今ですが、真に孤独を味わうことは、現代社会では極めて難しいことのようにも思われます。
◆いわばシステム的に四六時中、つながりを強要されているかのような状況と申せるかもしれません。
◆このネットの「つながり」を通じた快感がインスタントかつ頻繁に味わえるゆえに、快楽が多すぎてそれを感知する脳の装置が麻痺すると、前項で記しました。
◆筆者の見るところ、自然な甘みを白砂糖の刺激に置き換えるのも、自然の音を遮断して好きな音楽に置き換えるのも、現実の世界を映画や漫画の視覚情報に置き換えるのも、目の前にいる人をデジタルなつながりに置き換えるのも、根は同じ。より快適に、よりダイレクトかつインスタントに脳に快感刺激を入力し続けることと関係します。
◆不幸は、快感不足でなく、快感過多で頭が麻痺することにある。
◆人は「つながり」によって巨大すぎる快感を感じるだけに、インスタントにつながりすぎないほうが、精神衛生上はよいのです。
【53 ネットを断って一人に立ち返ることこそ、最高の安息】(p122-123)
◆仕事でも交遊でも、相手の視線を気遣いながら、さんざん人々とつながって、なんだか疲れてようやく帰宅。「ふー、やれやれ」とソファにもたれて休息しているつもりでも、携帯端末を手にしてピコピコ置葉を読み書きして誰かとつながっていたなら、それは深い休息にもリセットにもなりません。
◆一人のときも誰かとネットで言語記号を介してつながり、現代人の脳はあまりに多量の言葉のシャワーを浴び続け、つながり過剰でパンクしそうであるかのようにも見えます。
◆あまりに多量の言葉を処理し続けていると、意識が頭へとのぼってしまい、思考が空回りして疲れます。さらに離れていても言語記号によって人とのつながりが四六時中意識されると、常に他人を意識し脳神経が刺激され続け、ダメージを受ける。
◆このつながり過多は人類史上、未曽有のことと申せましょう。釈迦ははるか昔から、つながりすぎが脳神経を混乱させることを説いていたかのようにも思えます。
◆人とつながる快感から時には離れてみることでこそ、他者の視線という強烈すぎる刺激を受けずに、興奮した脳神経がリセットされる。
◆ゆえに、たまには端末の電源を切って目いっぱい体を動かすことに専念したり息を整えるワークをしたり、言語刺激を離れて孤独なる身体性に立ち返ってやれば、最高の安息になるのです。
情報過多、つながり過多とは怖いものですね。
脳の暴走を引き起こすようですから、これには心したいものですわ。
有り難いことです。
ありがとうございます。

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