2011年3月25日金曜日

地震後の通勤状況(非常事態)

地震発生後、バスがすべて休日ダイヤとなりました。
つまり、いつもの始発バスの便がなくなりました。
すし詰め状態のバスが頭をよぎりました。
そこで、腰のために駅まで歩いて行くことに決めました。
マンション南側の津田沼駅行きバス停の前を通りかかると、案の定、
バスが満員の状態で乗れない人が長い列を作っていました。
こんなのに、乗ったら腰が危ないです。
歩いて30分で駅に着きました。
西宮の前は土気(千葉県)に通勤していました。
そのときは、18,000歩を目指し行きも帰りも歩いて通っていました。
雨の日だけはバスを利用して。
そのときの経験があるので、駅まであるくことには
なんの抵抗もありませんでした。
幸い、14日(月)は、総武線不通のため終日自宅待機でしたし、
16日(水)は、娘と孫の退院ということで休暇をいただけました。
管轄の鹿島港以北、三陸海岸までの港で予定していた検査が
すべてキャンセルとなり、少し業務量減となっていました。
また、雨も降りませんでしたから助かりました。
15日(火)は、総武線快速が運行再開となりましたが、
津田沼始発はなく便数が減っていますので、すし詰め状態でした。
一番後ろの車輌に乗りました。
他の車輌に比べると混み具合は、少しはましだったように思います。
それでも、携帯を取り出せないほどの混みようでした。
東京駅まででしたから、山手線に乗り換えました。
これも、ひどい混みようでした。
腰のために、新橋から事務所まで歩くことにしました。
17日(木)、18日(金)の朝は、横須賀線津田沼始発(久里浜行き)が
運行を再開していました。
ニュースで周知されていなかったせいか、いつもより
人が少なく楽に座れました。
17日(木)を除いて、帰路は東京駅始発電車に運よく座れました。
また、津田沼駅からは、並べば座われるので、始発バスで帰りました。
17日(木)の帰路は、海江田発言(大規模停電予告)の影響
帰りはえらい目にあいました。
すぐに帰るとパニックになっているだろうと、定時過ぎまで
仕事して、歩いて新橋駅まで。(17:50着)
幸い横須賀線が動いていました。
品川駅始発の18:02新橋駅発千葉駅行きがありました。
座れるかなとグリーン車に並びました。
前から5番目です。(これなら座れるかな!)
しばらくすると長い列ができていました。
やはり、座れませんでした。
座れない人がグリーン車の通路にビッシリ並んでいました。
結局、津田沼駅で降りるまで立ち詰めでした。
しかし、他の車輌の混み具合は尋常ではないだろうと、
これでよかったのだと、自分を慰めたしだいです。

2011年3月23日水曜日

定年退職前、最後の有給休暇

支部長からの勧めもあり、最後の有給休暇をいただいています。
出勤簿によると、有給休暇は、病欠・入院用の繰越休暇まで
含めると約55日残っています。(3/15現在)
2009.1.1~2010.12.31 14.5
2010.1.1~2011.12.31 19.0
2011.1.1~2012.12.31 21.0
あまり周りに迷惑がかからないようにと、3月22日(火)から25日(金)
の4日間をいただくことにしました。
土日祭日を含めると9日間の休みとなります。
前半の3連休は関西へのお墓参りに行き、後半は
福島西郷村の土地を見に行く予定でした。
今回の巨大地震と放射能の影響でいずれも断念しました。
自宅でじっくりと定年退職の手続き、退職後の生活設計に
時間を費やすことにしました。
あと、定年退職までの出勤日数は、28日(月)から31日(木)の
4日間を残すのみとなりました。

2011年3月22日火曜日

3/5(土) 送別会でのスピーチ

宴会・送別会の主賓の席において、スピーチが求められました。
昨年末から悩みに悩み抜いてきた問題を披露しました。
定年退職か?常勤嘱託か?という問題です。
なぜ悩むかといえば、健康的な面と経済的な面で相反する
問題があるからです。
健康的な面では、今の仕事(一日中パソコンに向かって行う
デスクワーク)が腰と目にかなりの負担を強いているので、
一刻も早く今の仕事から離れることが要求されるということです。
経済的な面では、今とほぼ同じような生活レベルを維持するためには、
周りと同じように嘱託で働くことが要求されるということです。
そこで、いろいろ悩み抜いてきた訳ですが、健康的な面を考えている
ときに、ふっと両親の寿命が思い浮かびました。
おふくろが55歳、おやじが65歳で他界しています。
同じだとすると、せいぜい、あと5年の命です。
よく生きられてもあと10年くらいでしょう。
残された短い命は自分のために使ってもいいのではないか、
と思い至るようになりました。
結局、これが最後の決め手となりました。
そこで、常勤嘱託の委嘱辞退願いを提出し、受理していただきました。
では、経済的な面では、どうするのかという問題が残っています。
西宮の社宅から自宅に引越ししてきてから、「シンプルに生きる」、
「ガラクタを捨てれば自分が見える」、「断捨離のすすめ」などの
本に触れてから、物を増やさなくなりました。
これは、社宅(3LDKに一人で悠々と住んでいた)から引越しするときに
家電製品、家具、日常製品、ガラクタなどの処分に苦労したからです。
そこで、いかにモノを少なく所有するかという視点に立って、
生活態度・習慣、身の回りの品々を見直せば、やっていけるのでは
ないかと思い至るようになりました。
さらに禅僧の修行僧のようなシンプルな生活と知恵を取り入れていけば、
わずかな年金と退職金の切り崩しによって、どうにかやっていけるぞ、
との結論に至りました。
という筋書きにて、最後は感謝の言葉で締めくくり、
無事、スピーチを終えることができました。

3/5(土)-3/6(日) 春の旅行会兼送別会

会社の行事、春の旅行会兼送別会が開催されました。
3月5日、6日の両日、箱根湯元温泉に行ってきました。
初めて、箱根海賊船に乗り、箱根ロープウェイ、箱根登山ケーブルカー、
箱根登山鉄道を制覇しました。
3月5日(土)、新宿からロマンスカーで箱根湯元へ。
それから箱根登山バスで箱根ホテルまで。
そこで優雅なランチブッフェをいただきました。
なかなか、料理の味もよく、見晴らし景色のよい場所でした。
箱根町港より箱根海賊船で芦ノ湖遊覧。
富士山が雪化粧されていました。
桃源台からロープウェイ、ケーブルカー、箱根登山鉄道を乗り継いで
つまり、桃源台-大涌谷-⇒早雲山⇒強羅⇒の経路で箱根湯元へ
たどり着きました。
箱根登山鉄道は山の傾面を登るためスイッチバック方式をとり入れて
ジグザグに登るので、ゆっくりと時間をかけて走ります。
満員で座れなかったので、この行程は非常に腰に厳しかったです。
宿は「箱根湯元温泉 箱根路 開運」でした。
有馬温泉の高級な宿と比べるといまひとつ物足りませんでした。
夜には、恒例の宴会・送別会がありました。
それまでにスピーチの内容も固まり、どうにか
無事に終えることができました。
翌日は、朝食後、各自、自由解散となりました。

2011年3月21日月曜日

あわただしい3月

3月に入ってから、定年退職目前ということもあり、いろいろな行事や
変化や出来事が発生してあわただしい日々がつづいています。
3月5日(土)・6日(日)、会社の行事で春の旅行会兼送別会に
箱根湯元温泉に。
3月11日(金)早朝、次女が出産入院。
3月11日(金)14:46、東日本巨大地震が発生。
3月11日(金)15:00、婿殿が病院に到着。
3月11日(金)15:23、次女が男児を出産。
3月11日(金)夜、鉄道全線運行見合わせのため、地震難民状態となり
新橋の居酒屋で一夜を明かす。
3月12日(土)朝、鉄道運行再開見合わせの中、運行を再開した電車を
乗り継いでやっとこさ帰宅。
3月14日(月)、総武線不通のため終日自宅待機。
3月15日(火)、送別会のキャンセル延期。
3連休中の関西へのお墓参りと会食をキャンセル延期。
3月16日(水)朝、次女と孫が退院。
3月18日(金)昼、婿殿のご両親が孫とご対面。自宅で会食(仕事で不参加)。
3月19日(土)昼、自宅で会食。婿殿のご両親が帰宅。
3月20日(日)朝、婿殿、上海へ出張・見送り。
地震と東電の原発の影響で東日本は生活が完全に乱されています。
一刻も早い復旧と復興を祈らずにはいられません。

2011年3月19日土曜日

劇的な初孫の誕生

東日本巨大地震が発生したのが、3月11日(金)14:46頃です。
孫が生まれたのが15:23でした。
まさに余震の合間を縫って初孫が誕生してきたわけです。
地震の最中に生命が誕生したわけですから、恐怖に慄いていた
助産師さんたちに元気と勇気を与えたようでした。
また、次女の夫が出張先の上海から飛んできて15:00に
病院に到着しました。
陣痛が生じてからの助産師さんの診立てによると出産予定は
14:00 頃だったようです。
次女と胎児が助けあって父親が着くまで踏ん張って、出産の立会いに
間に合わせたように思われます。
家内は、地震の恐怖に慄きながらもエレベータが停止しているので、
婿が出生に間に合うかと階段を下りたり上がったりで心臓はバクバク、
血圧はキンキンだったようです。
この劇的な出産に立ち会った助産師さんたちは、感動のあまり、
涙を流していたとのことでした。
退院のときに、助産師さんたちが、この子には、本当に元気と勇気を
もらいましたと口々に語っているのが特に印象的でした。
大きく育ってくれることを期待しています。

2011年3月13日日曜日

3月11日(金) 巨大地震発生

仕事(デスクワーク)中に大きな波のような揺れがきて、それが何回も
続くので、これはヤバイ(この世の終わり)かなと一瞬脳裏をよぎりました。
幸い、ゆっくりとした横揺れだったせいか、ビルの倒壊は免れました。
しっかりと、腰で揺れを感じていたしだいです。
実は、この地震の最中に孫が生まれました。
3/11 15:23 次女に男の子が誕生です。
そんなわけで、その夜は、早く帰りたかったのですが、交通機関が
すべてストップしたために、翌朝の始発で帰ろうと新橋の居酒屋
一夜明かしました。
幸い店長が良い人で長いすに横にならせてくれました。
翌朝は、5時に居酒屋を出て、JR新橋駅に着くも、JRの運転再開は、
7時過ぎと報じられていました。(ガクッ!!)
銀座線が運転を再開したとの情報により上野までいき、京成に乗ろうと
トライしましたが、運転見合わせ中でダメでした。(ガクッ!!)
しゃあないと、秋葉原まで歩いて、JR7時過ぎの運転再開電車に乗ろうと並んで
いましたが、車輌点検、線路内点検とかで、いっこうに動く気配なし。
そんななか、家内からの東西線が西船橋まで動いているとの情報により、
日比谷線で茅場町まで行き、東西線に乗り込みました。
西船橋で、これまた、運よく運転再開した電車(JR各駅停車)に飛び乗る
ことができました。
東西線は運転本数を減らしているため、超満員、これまた安全を確認しながら、
ゆっくりゆっくりと走るので、苦痛を通り越し気分が悪く吐き気を催しました。
疲労困憊ながらも、やっとのことで無事、家にたどり着くことができました。
とりあえず、横になりたかったので、帰宅後、湯漬けを少しだけかきいれて
一眠りしました。
昼過ぎに目覚め、風呂に入ってからようやく孫に会いに行く元気が
でてきました。
結局、孫に面会したのは、なんと15時過ぎになってからでした。
出産から丸一日たっていました。
しかし、家の前にある病院が新しい建物なので、安心できたのはたいへん
助かりました。
我が家は、地震による被害はありませんでしたが、被災者の方々のご冥福を
お祈りいたします。